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2018年09月の記事は以下のとおりです。

最上殿始末

  • 2018/09/16 20:34
  • カテゴリー:読み物

手塚治虫の作品で、強く印象に残っている短編がある。復讐を描く時代物。タイトルは思い出せなかったが、Google がすぐに教えてくれた。「最上殿始末」だ。手塚治虫漫画全集では、265巻「火の山」(講談社、83年)に収載されている。

最寄り図書館の棚にあるこの巻を読んだ。目当ての「最上殿始末」以外に4編ほど入っている。その内、「ペーター・キュルテンの記録」を以前に読んだ覚えがあった。のちに島田荘司著「切り裂きジャック・百年の孤独」を読んだときに、えらく似ている話だなぁと思ったものだ。

さらに、閲覧席に腰を据えて、同全集31-34巻「きりひと讃歌」(講談社、77年)も読んだ。この日はここまで。昔読んだもので再読しようと思うのは、他には例えば、「アドルフに告ぐ」や、「陽だまりの樹」「シュマリ」など。「百物語」は先日読んでしまった。またの機会に所蔵されている作品を読んでみよう。

プレハブの実験室にて

  • 2018/09/16 05:55
  • カテゴリー:未分類

夢を見た。砒酸を使う実験だ。試薬をテーブルの上に並べて準備を進めている。ふと見ると左の親指に棘のようなものが刺さっている。抜き取って手当てしてからでないと反応を開始できないなと思っているところへ、教授の河津先生が通りかかった。砒酸の後処理について少しアドバイスをもらった。先生はいつもの白衣ではなく背広姿だ。そそくさとドアから出て行こうとする。おれも続いて外に出た。出てみると、実験室はがらんとした大きな空間の中にあるプレハブだった。新幹線の高架下なのかもしれない。学会ですかと聞くと、先生は、義理で出ないといけないと言った。長いあいだご苦労さんやったな、これで会うのは最後になると思うと先生は続けて言う。握手してもらうために手を出そうか、それとも、論文の提出が遅れたことを詫びるべきか、考えている内に目が覚めた。

マーラーの4番

  • 2018/09/15 20:17
  • カテゴリー:音楽

ついさっきまでN響の演奏会がライブ放送されていた。第1891回定期(プログラムA)。番組表にこうもり序曲、南国のばら他とあったので、気楽に聞き流そうと、NHK-FMを点けておいた。冒頭、曲目が紹介された。前半は確かにシュトラウスで兄弟の作品5曲、続く後半は、なんと、マーラーの交響曲4番。妙な取り合わせだ。ウィーンつながりだろうけれど、巨大な交響曲の前にシュトラウスを並べるかね。

と思いながらも、後半もラジオを点けたままにした。決して好きではないマーラーの中で、4番は比較的アレルギーは低い。佐々木昭一郎のドラマ「四季・ユートピアノ」(80年)がその音楽にこの曲を使っている。第一楽章が始まって1分30秒ぐらいに登場する旋律、もしかすると第一主題か、を耳にするとあのドラマの場面が目に浮かんで来る。そのために、手元のレヴァイン盤など、その部分をつまみ食いするように聴くことがある。場合によってはそのまま終わりまでかけている。

今夜のN響はどうだったか。指揮はヤルヴィ。第一楽章のその部分、悪くない。だいぶあっさりしているようではあったが。「四季・ユートピアノ」をまた見たくなった。

百物語

  • 2018/09/15 07:41
  • カテゴリー:読み物

最寄りの図書館にマンガ本の棚があることに気付いたのは少し前のこと。手塚治虫が少なからずある。その中の一冊、手塚治虫名作集(3)「百物語」(ホーム社、89年)を読んだ。無性に懐かしい。かつて、中学生の頃、集英社文庫版を持っていた。

眷属のキツネたちに長いあいだあなたを四方八方探させていたわ

このスダマのセリフ(p87)を見てハッとした。これだったのか。と言うのも、去年読んだ、久生十蘭の「生霊」に、狐の眷族云々とあって、この狐と眷族(属)のセットは以前に何かで見た覚えがあるがそれは何だったろうかと思い出せずにいたのだった。胸のつかえが下りたような気分だ。

「百物語」は、ゲーテの長編詩劇「ファウスト」を下敷きにしていると言われる。主人公の不破臼人(ふわうすと)、これはファウストだ。メフィストフェレス役のかわいい悪魔スダマも、何か言葉遊びだろうかと考えたものだが思い当たらなかった。あらためて辞書を引いてみると、すだまは、人面鬼身の怪物や霊のことを意味する言葉のようだ。

天才棋士降臨

プロになってからは対局が忙しくなったので、対局が一番の勉強法かもしれません。

過密なスケジュール(なのだろう、将棋界の事情に詳しくないのでよく判らないが)の中で、どんどん成長していったことがこの本からも読み取れる。対局という実戦が、あたかも栄養源となっているかのごとく。「天才棋士降臨・藤井聡太-炎の七番勝負と連勝記録の衝撃」(日本将棋連盟書籍編集部編、マイナビ出版、17年)から(p36)。

羽生善治棋士が「藤井さんの将棋」を評する(p64あたり)。「穴らしい穴がほとんど見えない」、つまり定跡を既に十分に知っている。将棋ソフトよりは古典的な勉強法である「詰将棋を解くことによって身に付けた」方が大きいようだ。昨今、早く強くなる環境が整っている。それは皆同じ条件、「そこから藤井さんが抜け出した」。

どうやら、勉強して、努力して、ということが強さの源泉のようだ。言うまでもないか。実際、本人は「羽生三冠の将棋はいままで何百局も見ている」(p42)と書いている。何百局も見て、それを記憶しているということだ。これは凡人にはできない。努力する素養を身に付けている。天才は、1%の閃きと99%の汗(努力)、という言葉を、ふと思い出した。汗は誰にでもかけそうだが、どうやらそうでもなさそうだ。

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