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キーワード「転職」の検索結果は以下のとおりです。

進路選択のきっかけ

テレビの影響力はすごいなと思います。

視聴者からのリクエスト曲がかかった折にそのコメントがあった。曲は、TVドラマ「おれは男だ!」(1971-72年)の主題歌「さらば涙と言おう」。歌謡スクランブルの「放送100年スペシャル」にて。

ドラマの主人公、小林弘二(森田健作)は、東京商船大学へ進むと言っていた。リクエストした方はそのドラマの影響で、商船大へ進学し船乗りになったのだとか。

私も、御多分に洩れず、テレビ番組を観て進路を選ぼうとした。NHK特集「行-比叡山千日回峰」(NHK総合、1979/1/5)に強く心を動かされ、出家しようと決意した。結局、僧にはならず大学へ進学したことは以前ここにも書いた。

考えてみた、理系の学科を専攻した理由を。あれはテレビの影響ではない。小学校時代に理科の実験に親しんだことが遠因だろう。理科が得意な担任の下、二酸化マンガンと過酸化水素水による酸素の発生や、食塩水の電気分解など、興味深い実験の数々を実地に経験させてもらった。

中学時代には、どういう経緯だったか、課外の時間に実験をやっていた。例えば、植物の細胞を脱分化してカルスをつくる。雑菌対策が上手くできず何度も失敗しながらも、熱心に取り組んだ記憶がある。

大学では、化学と生物学の接点、農学部農芸化学科を選んだ。天然物有機化学を専攻。医農薬に応用できる新規な化合物を天然に求めた。就職先は化学メーカー。生物化学の研究所からスタートし、二度の転職を経ても、55歳で早期退職するまで、ずっと技術系の開発部門に身を置いた。

音楽はどうだったか。職業にすることを、一時期、真剣に考えた楽器、それに出会ったのは高校の吹奏楽部だった。当初、部活をするつもりはなかったが、いくつかの理由が重なって入部。トランペット吹きの親友に誘われた。従姉が以前その部にいた。決め手は、小学校時代の音楽教師の言葉、音楽する心を忘れないで、それがずっと耳に残っていたからだ(正確には、うたうこころを忘れないで!、と書いてくれた)。

大学でオーケストラに入り、その後も市民オケなどで吹いた。演奏することから遠ざかった今も音楽のない生活は考えられない。

小学校で受けた教育、それも、理科室で実験したことや、音楽室で歌ったことなど、五感すべてで感じたことが、人生の選択においては重要な意味を持ったようだ。

と、つらつら回想するわけだけれど、もし、あの時、意志を通して出家していたら、一人の僧が、昔、修行僧のドキュメンタリーをテレビで観て、この道を選んだ、と思い返すことになったはず。幼い頃の体験とその後の人生との繋がりなんて、呆気なく、ぶっ飛んでしまうわけだ。テレビの影響力、その威力はすごいとつくづく思う。

Re: 文庫100冊確定申告、25年3月最も危険な毒を含む食べ物ファゴット(いずれもサイト内)。歌謡スクランブル▽放送百年SP(5)(NHK-FM、3/11 12:30-)逢地真理子

5人の現在位置

このあいだ東京で会った友人5人について書いてみよう。

一人は、最初に勤めた会社の同僚。とは言っても同じ職場にいたことはない。私は関西の研究所、あっちは遠く離れた支社。1990年代初頭のネットワーク黎明期に社内BBSを介して親しくなった。その会社を離れた後は、IT系で不定期が長かったようだが、今は、その方面でフルタイム。今回、中華料理のお店を選んでくれていた。

一人は、私が外資系に転職した際に隣の部署にいた担当者。お互いヒラの頃よく飲んだ。その後、事業部長まで登り詰め、ごく最近退職したとか。再雇用の話は断り、まったく別の領域・職種にチャレンジするらしい。今回、銀座の蕎麦屋でお昼から飲んだ。

一人は、私がドイツ駐在時代に知り合った方。外資系の確か執行役員だったが、60歳になる前にあっさり辞めてしまった。複数の言語を流暢に操る、そこを活用して、これまたまったく別の仕事に就いていた。今回は、ご自宅に招いてくれた。美味しいワインの用意あり。その方面にも詳しい。

一人は、私が二度目の転職した先の同志、同じ時期の転職組。斜陽にある事業を復活させるというタフなミッションに二人で取り組んだ。長年、苦楽をともにした。今は、外資系日本法人の社長。今回、神田の粋なお店でおごってもらった。

一人は、小中学校時代の同級生。幼い頃から運動ができ、高校は部活で選んだ。二つほど得意な競技があったはずだが、今は、別の種目のインストラクターをやっている。同窓会のグループLINEでやり取りするようになって一緒に飲むようになった。今回は上野・御徒町あたりでハシゴ酒。

5人の内訳は、男性1人と女性4人。年齢は、3人は私と同世代、2人は少し若い。皆、変化を求め、それを楽しんでいるようだ。

東京、24年11月(サイト内)

退職金上乗せ加算

きのう(9/26)、競業避止を話題にした際に、退職金の上乗せ加算(パッケージ)の話に触れた。私が転職しようとしている時、たまたま、会社は、早期退職を希望する者に対して退職金に上乗せするキャンペーンを実施中だった。いわゆる希望退職制度だ。

その受給は、退職後の競業避止が必須要件になっていたので、同業他社へ転職する自分には関係ないと思っていた。それに、希望退職制度が出来てから転職を考えたわけではなく以前から求職活動していた。事業部でのある職種をずっと望んでいたがこの会社では叶えられないのでそのポジションを別の会社に探したのだった。

退職日が決まり、引継ぎ作業を進めていたある日、私が所属していた組織の長Kさんから呼び出しを受けた。話は退職金加算のことだった。「なぜ加算金を申請しないのだ」「同業他社への転職を予定していますので」「転職先は聞いている。その企業なら、○○製造業(同業)とは書かずに、△△製造業と記入すれば良い」。コングロマリット企業なので確かにそうとも言える。

Kさんは、加算金の申請用紙をあらかじめ用意してくれており、ここで書けと私の前に置いた。言われるままに記入すると、彼はその場で決裁印を押してこう言い放った。「満額もらえるように手続きしておく」と。

温情なのか何なのか、いったいどういうことだろうと訝しく思った。

事情に通じた人があとで教えてくれた。今回の希望退職制度は、自発的な退職を促すものだが、実は、部門部署ごとにノルマも割り当てられていた。おまえ(私)がいた部署では、なかなかその数に達せず、Kさんは、ほとほと困り果てていた。そこへ、おまえが辞めると言い出した。彼はほっと胸をなでおろした。おまえに何かしてやりたいと思っても不思議じゃない。それと、加算金は人事部が予算化しているので部門としては痛くも痒くもない。

くれると言うのだからありがたく頂戴した。少なくない金額だった。住宅ローンの繰り上げ返済に充てた。

そうそう、自民党総裁候補の人たちが解雇規制見直しを議論している。金銭的解決とか何とか言って。今さら何を言っているのだ。希望退職制度という名で、人員整理を金銭的に解決している会社はいくらでもある。それも何十年も前から。

競業避止契約(サイト内)。解雇規制見直しに波紋 「首にしやすく」懸念広がる―自民総裁選(9/26)

競業避止契約

広範すぎる転職制限は無効になることがある

企業が退職者に同業他社への転職を禁じる「競業避止契約」、これを採り上げた記事を読んだ。nikkei.comにて。

競業避止の文言を実際に見たことがある。

一度目の転職。最初に勤めた会社を辞める際、誓約書への署名捺印を求められた。業務上の秘密は漏らさない、「三年間」は同業他社へ転職しない、という主旨だった。

サインする前に、法務室の部長に尋ねてみた。取引先との契約などでいつもお世話になっていた方だ。正直に、同業他社への転職を予定していると明かし、この誓約書にサインしなくても良いだろうか、と聞いた。彼は書面をよく見もしない。そりゃそうだ、彼らが作成した文章だ。そして、こう答えた。

制限が広過ぎるし「三年間」は長過ぎる。出るところに出ると、この競業避止は認められない可能性が高い。それに、そもそも憲法で職業選択の自由は保証されているからね。この誓約書は単なる守秘契約だと思ってサインすれば良い、と。

同業他社への転職を阻止できない、と会社が考えていることは別の点にも表れていた。その当時、退職者を募り、それに応える者には退職金に上乗せする、というキャンペーンが全社で展開中だった。それを満額もらうには、一定の勤続年数を超えているなどの条件がいくつかあり、同業他社へ転職しないことは必須要件だった。つまり、同業他社へ転職するならどうぞ、ただし上乗せの加算金はないよ、ということだったのだ。

結局、その誓約書にサインして円満に退職した。競業避止の文言は有名無実なのだから削除するよう交渉しようかとも考えたけれど、原文のまま、のんだ。そして、予定通り、同業他社へ転職した。

二度目の転職。その時も誓約書に署名した。課せられたのは守秘義務だけだった。55歳で早期退職した際も同様で、書面のタイトルは「秘密保持誓約書」。再び、競業避止の文言を目にすることはなかった。

山崎元さん死去転職(いずれもサイト内)。同業他社への「転職禁止」問題に 妥当性巡る判決相次ぐ(9/20)

葬儀の後で

1994/11/24(木)
13:00 葬ギ(武田副社長)、O/B、ドイツ行きの件

月曜日の訃報を見てちょっと思い出すことがあって、昔の手帳を引っ張り出した。

30年ほど前に、大阪市内の大きなお寺で焼香した。亡くなった方は同社の社長だと思っていたのだけれど、それは記憶違いで、手帳に副社長と記している。1994年11月のこと。

その時は、上司の部長(O/B)に同行して葬儀へ行った。その帰り道、上司から、今のプロジェクトが落ち着いたらドイツ支社への赴任はどうか、と打診を受けた。その話のために同行を求められたようだった。結局、何やかやとあって、ドイツ行きは実現しなかった。化学を志した者として、もしくは音楽の徒として、一度は住んでみたいと思っていただけに残念な思いをした。

研究所から事業部へ転勤して一年、まだ何者でもないあの頃、それから色んな事が起こるあの頃。製薬企業トップの訃報は、そんな頃の記憶へと繋がって行った。

ドイツ行きの望みはその十年ほど後に転職した先で叶う。ドイツ企業の本社勤務だった。

武田国男氏が死去 武田薬品工業元社長、84歳(6/17)

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