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キーワード「転職」の検索結果は以下のとおりです。

賃上げ成長論の落とし穴

  • 2025/08/27 14:42
  • カテゴリー:読み物

基本的には転職によってより賃金の高い企業へ移動する。もしくは、各企業や産業において生産性を高め、より付加価値の高いシステムを構築することにより賃金を引き上げる

今後、賃金を引き上げていく、それを持続させる、そうするためには、と第7章第2節「今後の賃金上昇のために」は始まる。

中村二朗・小川誠著「賃上げ成長論の落とし穴」(日経BP、2024年)から(p296)。最寄り図書館の新着本コーナーにあったのを借りて来た。

働く者の立場からすると、要するに、より賃金の高い企業で職を得る、ということだ。

企業側は、「生産性を高め、より付加価値の高いシステムを構築する」、いわゆる高度化することが求められる。それにより、利益率の向上を図り、賃上げ余力を生み出す。

産業や事業の高度化は、例えば、巷でよく言われるITとかDXとかAIなどを駆使して、これまでの延長線上ではない、事業内容や、仕事の進め方へとがらっと転換するイメージか。

そんな高度化は、どんな会社でも実施できるわけではない。大企業は比較的やりやすいだろう。本書の表7-1「事業所規模間賃金格差の国際比較」が示す通り、既にその傾向は現れている。大企業と中小零細を比べた賃金格差は、日本は他国より強く出ている。

つまり、日本の中小零細企業にとっては高度化は容易ではなく、積極的に賃上げに取り組めない状況にあることが判る。

そういう会社はいったいどうしている。早々と給料が上がった人たちの購買力は向上し、物価も上昇。結果、中小零細でも、商品の値上げが可能となって来る。わずかばかりの賃上げの原資を得て、最低賃金ラインをなんとか死守する。そういう構図から抜け出せずにいるのではないだろうか。

最低賃金(サイト内)

戦後80年の産業史

オープンで謙虚、そして新しいことに果敢に挑戦する姿勢こそ、40年の停滞に終止符を打ち、日本が成長力を取り戻す道である。

日本経済新聞の社説「経営革新で停滞の40年に終止符を」(8/14)から。オープンで、謙虚で、果敢に挑戦する、そういう姿勢を失いたくないものだ。

社説は、戦後80年を産業史の視点で振り返っている。大戦での敗戦から「1985年までの前半40年と、後半の40年できれいに明暗が分かれる」。前半は、戦後復興とそれに続く高度成長期、そして後半は、バブル騒ぎから始まった停滞期。

なぜ停滞してしまったのか。社説はこう指摘する。「活力の衰え」「過去の成功体験にしがみつき」「変革から逃げた」「新機軸に挑む熱意も低下」と。

私は、その後半40年に参戦した一人だ。1987年に就職。研究部門を皮切りに以降もずっと事業開発に身を置き、「新機軸」に挑み続けた。が、

配属先の主任研究員は、目標も判断も、妙に手堅い感じがした。アツくない。転勤した時の上司にも同じ雰囲気があった。社説が指摘するように「成功体験が足かせ」になり、挑戦への熱意は今一つ、だったように思う。二人は団塊の世代だった。

団塊の皆さんは、60年代後半から70年代前半にかけて就職し、成長期のいい時代を経験している。社会の中で大きなボリュームだった彼らが、長く管理職に居座り続け、新しいものを生み出そうとする動きに蓋をした。日本全体で、それが起きていたのではなかろうか。

転職した先では、上司はイギリス人だったこともあって、伸び伸びやらせてもらった。実績を積んで、さらに転職。今度は自分が管理職の立場になった。部下を率いて新たな事業をつくることには不安はなかったけれど、上層部を説得するのにだいぶ時間を要し、これには甚だ閉口した。団塊の世代が経営幹部になっていたのだ。

1947年から49年にかけて生まれた人たちだから今年で76歳から78歳。大企業はもちろん中小でも、団塊世代の経営者は、ほとんど、去っただろう。そういう点でも、「日本が成長力を取り戻す」、それが本格的に起きる時代が来つつあるのかもしれない。

人口動態の中で大きなボリュームを占める団塊の世代。社会や、経済、政治もかな、何かにつけ、彼らの考えや行動が少なからず影響した(する)ように思う。

さて、8/11の週、在京六紙の社説は、そのほかに、日航機事故40年、首相の進退、コメ増産政策、週刊新潮の差別コラム、広陵甲子園辞退、米統計局長解任、終戦の日、戦後80年首相見解、米露首脳会談、などを話題にした。

六紙社説、孤立死2万人超(いずれもサイト内)

森本毅郎41年ぶりのNHK

1984年3月放送記念日のテレソン24時間番組、そのキャスターを森本さんがやることになっていた。電車の中吊りポスター用に写真も撮ったのだが、その前に(2月末)で森本さんはNHKを辞めたので写真もテレソン出演もパーになった。

布谷洋勝氏(元NHKプロデューサー)が言っていた。テレソンのキャスターは鈴木健二さんが代わりに務めたとか。

引用は、NHKラジオの放送100年企画「森本毅郎41年ぶりのNHK」(3/21)から。森本さんの「朝刊読み比べ」(TBS)を時々聴く。元はNHKの人なんだな、再認識した。

私にも同じような経験がある。転職にまつわる話。

二か月先の国際的な催しに使うパンフレットに担当者の顔写真が載ることになっていた。私もその一人だったので業者のカメラマンに撮ってもらった。のだが、撮影中、この写真は無駄になるかもしれないな、と考えていた。

と言うのは、ちょうどその頃、二度目の転職活動を進めており、撮影の数日前に一社の面接を受け、手応えを感じていたからだった。そこは複数ある候補の中の本命だった。

手応えは勘違いではなかった。採用通知が届いた。やはり、写真はパーになった。

しようがない。転職しようとしていても本決まりになるまでは、そんなことをおくびにも出さず、ずっとそこに居続けるかのように現職のお仕事を続けるものだ。

さあ、本決まりになった。即、退職の意向を伝えると、退職日はその催しの後にして欲しいと求められた。まさか、そんな先まで残るつもりはさらさらない。パンフレットの原稿を差し替え、引継ぎを終えたらさっさとおさらばだ。

一方、転職先の会社は、早めに移って来て、その催しの準備を仕事始めにしてはどうか、と言って来る。同業のその会社にとっても重要な催しだった。

結局、どちらにも義理立てせず、その催しには参加しなかった。有休を消化し、さらに数週間を無職で過ごした。たっぷり充電期間をとったのだった。

なお、このラジオ番組は、放送100年記念で、TBSでも同時放送されたようだ。似たような企画で、NHKとTokyo FMとのコラボ(3/20)なんかもあったし、テレビではクローズアップ現代(3/31)に、(元)他局のアナウンサーが出ていたりした。放送100年記念をNHKだけのお祭りにするのは具合が悪いと考える向きでもあるのだろうか。

放送100年転職(いずれもサイト内)。放送100年企画「森本毅郎41年ぶりのNHK」【出演】森本毅郎・布谷洋勝・上田早苗(NHKラジオ第1、3/21 20:05-)

進路選択のきっかけ

テレビの影響力はすごいなと思います。

視聴者からのリクエスト曲がかかった折にそのコメントがあった。曲は、TVドラマ「おれは男だ!」(1971-72年)の主題歌「さらば涙と言おう」。歌謡スクランブルの「放送100年スペシャル」にて。

ドラマの主人公、小林弘二(森田健作)は、東京商船大学へ進むと言っていた。リクエストした方はそのドラマの影響で、商船大へ進学し船乗りになったのだとか。

私も、御多分に洩れず、テレビ番組を観て進路を選ぼうとした。NHK特集「行-比叡山千日回峰」(NHK総合、1979/1/5)に強く心を動かされ、出家しようと決意した。結局、僧にはならず大学へ進学したことは以前ここにも書いた。

考えてみた、理系の学科を専攻した理由を。あれはテレビの影響ではない。小学校時代に理科の実験に親しんだことが遠因だろう。理科が得意な担任の下、二酸化マンガンと過酸化水素水による酸素の発生や、食塩水の電気分解など、興味深い実験の数々を実地に経験させてもらった。

中学時代には、どういう経緯だったか、課外の時間に実験をやっていた。例えば、植物の細胞を脱分化してカルスをつくる。雑菌対策が上手くできず何度も失敗しながらも、熱心に取り組んだ記憶がある。

大学では、化学と生物学の接点、農学部農芸化学科を選んだ。天然物有機化学を専攻。医農薬に応用できる新規な化合物を天然に求めた。就職先は化学メーカー。生物化学の研究所からスタートし、二度の転職を経ても、55歳で早期退職するまで、ずっと技術系の開発部門に身を置いた。

音楽はどうだったか。職業にすることを、一時期、真剣に考えた楽器、それに出会ったのは高校の吹奏楽部だった。当初、部活をするつもりはなかったが、いくつかの理由が重なって入部。トランペット吹きの親友に誘われた。従姉が以前その部にいた。決め手は、小学校時代の音楽教師の言葉、音楽する心を忘れないで、それがずっと耳に残っていたからだ(正確には、うたうこころを忘れないで!、と書いてくれた)。

大学でオーケストラに入り、その後も市民オケなどで吹いた。演奏することから遠ざかった今も音楽のない生活は考えられない。

小学校で受けた教育、それも、理科室で実験したことや、音楽室で歌ったことなど、五感すべてで感じたことが、人生の選択においては重要な意味を持ったようだ。

と、つらつら回想するわけだけれど、もし、あの時、意志を通して出家していたら、一人の僧が、昔、修行僧のドキュメンタリーをテレビで観て、この道を選んだ、と思い返すことになったはず。幼い頃の体験とその後の人生との繋がりなんて、呆気なく、ぶっ飛んでしまうわけだ。テレビの影響力、その威力はすごいとつくづく思う。

Re: 文庫100冊確定申告、25年3月最も危険な毒を含む食べ物ファゴット(いずれもサイト内)。歌謡スクランブル▽放送百年SP(5)(NHK-FM、3/11 12:30-)逢地真理子

5人の現在位置

このあいだ東京で会った友人5人について書いてみよう。

一人は、最初に勤めた会社の同僚。とは言っても同じ職場にいたことはない。私は関西の研究所、あっちは遠く離れた支社。1990年代初頭のネットワーク黎明期に社内BBSを介して親しくなった。その会社を離れた後は、IT系で不定期が長かったようだが、今は、その方面でフルタイム。今回、中華料理のお店を選んでくれていた。

一人は、私が外資系に転職した際に隣の部署にいた担当者。お互いヒラの頃よく飲んだ。その後、事業部長まで登り詰め、ごく最近退職したとか。再雇用の話は断り、まったく別の領域・職種にチャレンジするらしい。今回、銀座の蕎麦屋でお昼から飲んだ。

一人は、私がドイツ駐在時代に知り合った方。外資系の確か執行役員だったが、60歳になる前にあっさり辞めてしまった。複数の言語を流暢に操る、そこを活用して、これまたまったく別の仕事に就いていた。今回は、ご自宅に招いてくれた。美味しいワインの用意あり。その方面にも詳しい。

一人は、私が二度目の転職した先の同志、同じ時期の転職組。斜陽にある事業を復活させるというタフなミッションに二人で取り組んだ。長年、苦楽をともにした。今は、外資系日本法人の社長。今回、神田の粋なお店でおごってもらった。

一人は、小中学校時代の同級生。幼い頃から運動ができ、高校は部活で選んだ。二つほど得意な競技があったはずだが、今は、別の種目のインストラクターをやっている。同窓会のグループLINEでやり取りするようになって一緒に飲むようになった。今回は上野・御徒町あたりでハシゴ酒。

5人の内訳は、男性1人と女性4人。年齢は、3人は私と同世代、2人は少し若い。皆、変化を求め、それを楽しんでいるようだ。

東京、24年11月(サイト内)

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