日本の失敗
- 2022/04/19 06:24
- カテゴリー:読み物
再確認のためにいっておけば、戦後憲法における「戦争の放棄」という条項は、一九二八年の「不戦条約」における「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スル」条項を、日本が一九三一年の満州事変以来、一方的に破ったこと。その結果として、連合国から一国の憲法に懲罰的に「戦争の放棄」条項が書きこまれたのである。
罰則で十字架を背負わされたと理解すべきだろうか。松本健一著「日本の失敗」(岩波現代文庫、2006年)から(p164)。本書副題は、「第二の開国」と「大東亜戦争」。もっと早くに読んでおくんだった。1998年刊。
欧米諸国は、第一次世界大戦でのあまりに酷い戦禍を目の当たりにし、互いに戦争を制限し防止することを約した。結果、通称「不戦条約」と呼ばれるパリ条約(1928年)や、支那ニ関スル九ヵ国条約(1922年)などが樹立された(p156)。日本は、それら国際的な取り決めに参加していながら、それを踏み躙ったのだ。
日本は「日清・日露では開戦の詔勅において、国際法を守って戦う、と宣言」(p294)。それなのに、なぜ、後の戦いでは遵法の観念が失われてしまったのか。
欧米で「その観念が急速に強まる」のとは対照的に、ヨーロッパ戦線の惨状を見ていない日本は「時代と情勢によってときどきに変化する」国際法に敏感ではなかった。どうやら依然「帝国主義の覇権競争のまっさかり」と思い込んでいたようだ。袁世凱政権に対して対支二十一か条要求(1915年)を突き付け、中国での権益の延長、拡大を企てる。
本書は、人材の欠如を指摘している。昭和の軍人たちは、「国家指導者としての意識と責任感が希薄で」「ましてや、国際的なルールのうえで戦争をおこなう、という発想が」欠落していた(p302)。明治の頃は、「伊藤博文や山縣有朋などの元老が」国際法を意識し、かつ軍部をコントロールできていたのだが(p174)。
# 検証戦争責任、象徴の設計、明治維新とは何だったのか(いずれもサイト内)。国際連盟規約(1920年)、北一輝(p30)、譚人鳳(p41)、小澤開作(p120、三男・征爾)、斎藤隆夫(p209)、西田幾多郎(p240)。世界新秩序の原理|青空文庫