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キーワード「戦争」の検索結果は以下のとおりです。

Re: 同日同刻

  • 2021/03/25 06:41
  • カテゴリー:読み物

「英語が要る。ようし!」 彼は東京に飛んで帰って、一晩でB7版「日米会話手帖」三二ページの原稿を書きあげた。(略)一カ月で四○○万部売れた。

機を見るに敏と言うんだろうな。出先で玉音放送を聞いて、英会話本で稼げることに気付き行動した人がいたのだ。引用は、山田風太郎著「同日同刻-太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日」(ちくま文庫、06年)から(p308)。

同日同刻日本のいちばん長い日(いずれもサイト内)

応仁の乱

  • 2021/03/06 06:39
  • カテゴリー:読み物

応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った。

呉座勇一著「応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱」(中公新書、2016年)から(p284)。15世紀の大乱と20世紀の世界大戦、どのような点が似ているのか。

第一次世界大戦(1914-18)。新興の帝国ドイツが、覇権国家イギリスを中心とする国際秩序に挑戦した戦争だった。サラエボ事件に端を発し、オーストリアをドイツが支援、セルビアを英仏露の列強が支持。参加国皆が、短期決戦を志向したが、長期化し総力戦の様相を呈する世界大戦へ拡大した。結局、イギリス海軍の海上封鎖によって補給路を断たれたドイツが降伏。勝者の英仏でさえ甚だしく疲弊、終戦後は、欧州全体の没落を招いた。それを尻目に、資本主義経済の中心が米国に移り、社会主義国家ソ連が成立する。

本書のお題、応仁の乱(1467-77)は、新興勢力の山名氏が、覇権勢力細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦争だった。畠山の家督争いである御霊合戦に端を発し、山名宗全が畠山義就を支援し軍事介入、細川勝元は同盟者の畠山政長を応援。東西両軍ともに短期決戦を志向したが、戦は長期化し総力戦の様相を呈した。結局、東軍に補給路を断たれた西軍が屈服。東軍側も損耗激しく、戦後は、結束の堅さを誇った細川でさえ一族で諍いを繰り返すようになる。参戦諸将の没落を尻目に、いわゆる戦国大名が台頭して来る。

新興勢力が秩序に挑戦するようなことが、また繰り返されるのだろうか。

# 経覚(1395-1473)、尋尊(1430-1508)。米国務長官 中国は「国際秩序に重大な挑戦をする力持つ」(3/4)

明治維新とは何だったのか

  • 2021/03/04 06:52
  • カテゴリー:読み物

薩摩の西郷や大久保、あるいは長州の木戸孝允といった人たちは、開国というこれからの国策は理解したものの、この際やっぱり関ヶ原の恨みは晴らさないといけない、と考えた。せっかく徳川幕府が弱っているのだから

御一新は薩長による「暴力革命」だった。半藤一利、出口治明著「明治維新とは何だったのか-世界史から考える」(祥伝社、2018年)から(p70)。薩英戦争や馬関戦争の敗戦で、薩長は、攘夷は到底無理と思い知る。一方、幕府は列強へ賠償金を払うはめになり疲弊する。250年前の恨みを忘れてはいない薩長、尊皇攘夷を本音の倒幕へと切り替えていく。

ペリーの目的は「太平洋航路の開拓」だった。▽開国、富国強兵の「グランドデザイン」を描いたのは、老中首座の安部正弘。それを実現したのは大久保利通。▽軍国主義の下地「統帥権の独立」は、西南戦争(1877年)を起源として山県有朋が発案した。▽維新三傑を継いだ「かなり程度がおちる」二人、山県有朋と伊藤博文は、革命を正当化するために中国の古典から「維新」の言葉を探し出し、自身の権威づけに「大した人物ではない」吉田松陰の名を利用した。

# 安部正弘(1819-1857)、西郷隆盛(1827-1877)、大久保利通(1830-1878)、木戸孝允(1833-1877)、山県有朋(1838-1922)、伊藤博文(1841-1909)

東京の戦争

  • 2021/02/20 07:22
  • カテゴリー:読み物

釘は使わず、板と板がきっちりと組み合わされ、やがて鉋がきれいにかけられた見事な柩が出来上がった。しかし、長年茶箪笥づくりをしてきた癖で、四隅が丸くけずられていて、優美ではあるものの奇妙な感じであった。

著者の父親が病死したのは終戦後すぐのこと。極端な物不足の折、柩が手に入らない。材料を用意して、近所の家具職人に柩づくりを頼んだのだった。吉村昭著「東京の戦争」(筑摩書房、2001年)から(p64)。不謹慎だとは思いつつも、角が丁寧に面取りされた棺桶を想像して笑ってしまった。

せんそうをよむ(サイト内)

詩と反詩

  • 2021/02/15 06:33
  • カテゴリー:読み物

それは何処でもない私たちの国の、私たちの土地のおくに見えていたもので(略)、破滅的な農村恐慌と兇作の底に沈んでいる十五年戦争の入口の日本の村のイメージなのである。

著者にとっての戦争のイメージは「何よりこんな風」だった。「詩と反詩」黒田喜夫全詩集・全評論集(勁草書房、1968年)に収載の「わが内なる戦争と戦後」から(p124)。この小篇が発表されたのは、「週刊読書人」1967年8月号。

東北地方の貧しい村々は、凶作に次ぐ凶作で飢饉に喘いでいた。1929年、世界恐慌に伴い生糸と米の価格下落。1931年、満州事変。冷害により東北で大凶作。1933年、三陸津波で東北沿岸部に甚大な被害。1934年、記録的な大凶作。1935年、全国の小作争議件数がピークに。1937年、盧溝橋事件、日中戦争始まる。国が戦争に動き出した時、農民たちは、貧困から逃げるようにして、兵役に就き、また満蒙開拓に志願したのだった。

黒田喜夫昭和農業恐慌|Wikipedia、小作人組合数および小作争議件数

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