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象徴の設計

  • 2021/04/05 06:54
  • カテゴリー:読み物

「わしは、一介の武弁じゃからのう」というのが有朋の口癖であった。政治よりも軍隊づくりが彼の執念であった。しかし、この言葉の中に、伊藤に対する青い炎が彼の心の中に、ちょろちょろと燃えていなかったとはいえぬ。

山県有朋による参謀本部設立(1878年)や軍事勅諭(82年)。彼をそれへと衝き動かす原動力の一つに、能吏である伊藤博文に対する「ひそかな反撥」があったのではないか。引用は、松本清張全集17巻(文藝春秋、1974年)に収載の「象徴の設計」から(p284)。初出誌は、「文芸」1962年3月-63年6月。

軍事勅諭は、有朋の命を受け、西周が起草し福地源一郎らが加筆したことが本書でも語られる。後に(1906年10月)、元老有朋は「帝国国防方針策」を上奏する。この起草は側近の田中義一歩兵少佐だった。

明治維新とは何だったのか(サイト内)。山縣有朋田中義一|Wikipedia

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