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キーワード「司馬遼太郎」の検索結果は以下のとおりです。

静かなノモンハン

  • 2020/11/12 07:04
  • カテゴリー:読み物

軍は、ノモンハンから還った下士官は、内地へ帰すな、という暗黙の指示を隷下部隊に与えていた。(略)ノモンハンの実情を知る下級幹部に対しては、軍はどこまでも監視の眼をゆるめず、事あるごとにその者を、遠方の危地へ追いやろうと意図している。金鵄の与えられている功績者に対してさえ、こうした一種の「処分」がつきまとった。

伊藤桂一著「静かなノモンハン」(講談社文庫、86年)のあとがきから(p233)。第二章の小野寺伍長は、ノモンハンでの働きによって功七級金鵄勲章を授与されている。上司の好意で内地に戻り勤務を続ける内に第二次大戦が始まり、一木支隊や山崎部隊が編成される折、その要員に加わるよう命じられる。が、いずれの時もたまたま出張先にあり、部隊の出発に間に合わなかった。後に各々ガダルカナル島、アッツ島で玉砕する部隊だった。

ノモンハン事件|Wikipedia、戦傷、日本軍17千人、ソ連軍26千人。対談:司馬遼太郎/伊藤桂一(p236)。半藤一利「ノモンハンの夏」(文藝春秋、98年)

坂の上の雲第6部

  • 2020/07/03 06:07
  • カテゴリー:読み物

神明はただ平素の鍛錬に力(つと)め戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者よりただちにこれをうばふ。古人曰く、勝つて兜の緒を締めよ、と

秋山真之が書いた連合艦隊解散ノ辞はそう終わる。司馬遼太郎全集第26巻(文藝春秋、73年)「坂の上の雲」第六部から。明治期に入って甚だしく混乱した文章日本語が「いくらかの型に整理されてゆくについては規範となるべき天才的な文章を必要とした」。漱石や子規の独創的な仕事がそうであり、真之の文章もまたその役目を果たした(p496)。

「坂の上の雲」全6部を読み終えて考えた、これは果たして歴史小説なのだろうかと。「百パーセントに近い」事実をベースとしている。新たな物語が紡ぎ出されているわけじゃない。歴史小説とは、ちょっと違うように感じる。著者の意図は、歴史上の事実や定説を紹介しそれらを評価することにあるようだ。それならば、いっそ、評伝、正岡子規や秋山兄弟の評伝、と捉える方が余程しっくり来る。

坂の上の雲(サイト内検索)。日本の新聞はむしろ流行を代表する(p284)、天気晴朗ナレド浪高シは天気予報から流用(p368)、準備に5年ほど執筆に4年三カ月(p510)

坂の上の雲第5部

  • 2020/06/25 07:07
  • カテゴリー:読み物

新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。

当時世界最強とも言われたロシア軍が日露戦争に負けた。なぜそんなことになったのか、戦後、日本の新聞は、冷静な分析を一行たりとも載せなかった。日本国民は、交戦国における暴政や革命機運を知らされなかったばかりか、さらに、日本軍隊の絶対的優越性という迷信を持つに至る。司馬遼太郎全集第26巻(文藝春秋、73年)「坂の上の雲」第五部(p80)から。それから百年経った現在、日本において、情報を出す側、受け取る側、各々の水準はどんなもんだろうか。

坂の上の雲(サイト内検索)

坂の上の雲第4部

  • 2020/06/12 06:41
  • カテゴリー:読み物

戦後、児玉の名が世間に知られることが薄く乃木の名声が旅順の名将として世間に喧伝されるにおよび、「乃木さんのもとっておけばよかった」と、旅順を語るとき、つねにそれを語った。田中の皮肉であったのかどうか、よくわからない。

田中国重少佐は、反故の整理係。家宝にしようと思って児玉源太郎の詩稿のみ密かに取っておいた。二〇三高地での激戦を制した、その真の立役者は児玉だったのだ。まだ残敵の掃討が続く中、司令官たちは夜集まって漢詩を詠み合ったという。何とも長閑な時代だ。「坂の上の雲」の後半は、文庫版ではなく、司馬遼太郎全集で読んでいる。引用は、第25巻(文藝春秋、73年)、第四部(p380)から。奉天会戦そして日本海海戦が近付いている。

坂の上の雲(サイト内検索)、良質の英国炭(p475)、「百パーセントに近い」事実(p553)、オデュッセイア - Wikipedia

独ソ戦

  • 2020/05/29 06:41
  • カテゴリー:読み物

日露戦争で、日本軍よりもずっと優勢な大軍を擁しながらも敗北した経験が、ロシアの軍人たちに深刻な思索をうながしたのだ。

その思索は、1930年代に「作戦術」として結実する。戦略と戦術の間に「作戦」という次元があり、戦争遂行に重要な意味を持つ。当時のその新しい軍事理論を、ロシアは20世紀初頭から鋭意検討した。独ソ戦での勝因は、圧倒的な人的・物的資源と、この「作戦術」の優位によるものだった。引用は、大木毅著「独ソ戦-絶滅戦争の惨禍」(岩波新書、19年)から(p150)。

日露戦争を戦った一方の日本はどうだったか。「寡をもって衆をやぶる」桶狭間式奇襲で日露戦争に勝った。陸軍の首脳は、その固定観念から抜け出せず、第二次大戦で陸軍が崩壊するまでそのスタイルに終始した。司馬遼太郎著「坂の上の雲 (4)」(文春文庫、99年、新装版)から(p256)。

# 桶狭間の戦い(1560年)、日露戦争(1904-05年)、ロシア革命(1917年)、ノモンハン事件(1939年)、独ソ戦(東部戦線、1941-45年)、クレフェルト「補給戦」、敵の重心(Schwerpunkt)を叩く、通常戦争・収奪戦争・世界観戦争(絶滅戦争)、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

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