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2022年05月16日の記事は以下のとおりです。

原敬の大正

  • 2022/05/16 06:23
  • カテゴリー:読み物

原敬という政治家にとって、国家統治のための政党政治の確立は生涯にわたる目標であった。その目標のために、その前半生において藩閥とたたかい、その後半生において新たに生まれはじめていた軍閥とたたかった。その政党の「力」によって手に入れた内閣で軍の力を抑えこんでいた

原敬は、戊辰戦争で賊軍とみなされた南部藩出身だった。松本健一著「原敬の大正」(毎日新聞社、2013年)から(p502)。軍閥政治の危険性を見抜き、軍部が独走するのを防ごうとした、平和主義者、原敬(1856-1921年)の評伝。

大正時代(1912-26年)の日本では、国際協調主義と軍国主義がせめぎ合っていた。第一次世界大戦で、同盟国イギリスからの要請によりドイツに宣戦布告(1914年)。ドイツの租借地、青島などを占領した。ロシア革命への干渉戦争では、アメリカとの共同でシベリア出兵を敢行(1918年)。政府は、英米との同調を重視した。が、軍部は、それには飽き足らずアジア太平洋地域での軍事的覇権を握らんと野心を剥き出しにする。引用にあるように、原敬内閣の頃には、まだ、政府が軍の力を抑え込むことができていた。

軍部の暴走を許すことになった原因は、統帥権干犯問題にあると言われる。その根は大正時代にあった(p502)。第一次世界大戦後のワシントン会議(1921-22年)で締結された軍縮条約で、日本の主力艦は「対米六割」と決められる。海軍主席随員だった加藤寛治は、これが気に入らない。のちに軍令部長となった加藤は、同じ轍は踏むまいと、ロンドン軍縮会議(昭和5年、1930年)に際し補助艦の比率に「対米七割」を主張する。が、希望量に達しないまま条約は調印される。そこで、統帥大権を盾に、政府が兵力量を統帥部の承諾無しに決めたのは違憲だとする、いわゆる統帥権干犯が提起されるのだった。

原敬は、18歳の一労働者に暗殺される。大正10年(1921年)11月のことだった。

松本健一改元は、5/2 かひとびとの跫音(いずれもサイト内)。秋山好古、加藤恒忠(号は拓川、正岡子規の叔父)、陸羯南

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