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大工道具物語

いま、私たちの身の回りのものは、高度に管理された工場で、優秀な機械によって、効率よく、正確につくられている。あらゆるものが、あたりまえのように立派にできてしまうので、つくられる過程や、それをつくりだすための工夫や努力が見えにくい。その結果もののありがたさやものづくりの大切さがなおざりにされてはいないだろうか。

画を担当した安田氏が、「はじめに」でそう書いている。竹中大工道具館著、安田泰幸画「水彩画で綴る大工道具物語―竹中大工道具館収蔵品」(朝倉書店、09年)から(p6)。この本は、最寄り図書館(牧志ほしぞら)の書棚にあった。

懐かしいお名前だ。安田氏のことは、氏の著作「ハンドワークノート京阪神版」(プレイガイドジャーナル社、79年)で知った。おれが高校二年のときだ。大事にしていたその本は、いつか失ってしまった。が、不思議な縁で、2013年に別のもう一冊を手にすることになった。譲り受けて手元に置いている、沖縄へ引っ越しする際にほとんどの本は処分したのだが。

組み立て式棚、完成

課題3の組み立て式棚、塗装を終え完成。自宅に持ち帰った。木工教室には週一回お世話になっている。3月から通い始めて4か月が経過。ここまでで、受講初期の課題三つを終えた。刃物の研ぎや大型機械での作業など厄介なことは先生が面倒見て下さる。初心者のこちらはつくることに集中できて、頗る楽しい。

課題1は、二枚の板を直角に継いだブックエンド、仕口は蟻組み。課題2の写真立ては、かんざしを差した平留め継ぎ。そして、課題3の棚は、平ほぞ継ぎ鼻栓と蟻桟。いずれもクギ類を使わない伝統的な手法によって組み立てる。そして、作業は、基本的に手道具で。

課題3は、安価な SPF 材が教材だった。板接ぎ(1×2材と1×4材)から始めて、最後のフラット上塗りまでの全作業にたっぷり2か月を要した。課題1-3など各題材の作業はある程度並行して進み、課題3の作業が少しでもあった回数を数えると正確には11回だった。だいぶ時間がかかってしまいました、と教室で話ていたら、先生が言うには、

ホゾ穴を全部、手でやってましたからね

と。手で、というのは素手ではなくもちろんノミを使った手掘りのこと。課題3でのホゾ穴は12か所。ノミの練習になると思い、手掘りにしたのだが、やはり時間がかかったのだ。たいがいの生徒さんは、一つか二つを手でやって、あとは角ノミ盤なのだとか。

課題3と併行してスタートした新しい題材「玄関スツール」にもホゾ穴がある。これは試しに、その角ノミ盤でやらせてもらった。上下と前後の位置決めをすれば、左右にずらして行くだけで、ぴたりと同じところにホゾ穴が開く。正確だし、何と言っても楽だ。先生は、手でやるのに比べると作業時間は 1/10 ほどと言う。それよりもっと少ないんじゃなかろうか。四か所、あっという間に済んだ。

課題のあとは題材を自分が選ぶ。形状や、デザイン、サイズ、材料、色など、自分好みの家具を、先生ご指導の下、つくることができる。まずは、玄関に置くスツールからスタート。小机など順次つくる予定にしている。

テンペスト

王府が建造した新しい船は、清国式のジャンク戦だ。竜骨と隔壁構造を持つ船は、インディアン・オーク号よりも構造的に優れている。これでちょっとした嵐でも沈没することはないだろう。読谷村の河口で建造中の船は急拵えとは思えないほど美しい

北谷沖で難破した英国船の代わりに、王府が読谷(の渡具知)で代替船を造ったのは史実だったんだな。先日の文化講座「近世琉球の船舶―造船技術の現状と課題」でその話を聴いた。北谷町誌にも記載されているとか。引用は、池上永一著「テンペスト」(角川書店、08年)から(上巻、p184)。

これ以外にも、この小説には、様々な史実が織り込まれている。宮殿内の間取りや建物の位置関係もよく研究されているし、王府の位階は事実を踏襲しているようだ。それもあってか、表では役人たちの出世競争、裏では後宮の女たちを取り巻く醜状、そして表と裏の駆け引きや陰謀、それらは、オビにある通り「圧倒的にリアル」だ。

皮一枚残して

ノコギリをぎりぎりに入れられるかどうか

これが、作品全体の出来栄えを大きく左右する、と木工教室の先生が言う。ぎりぎりは、皮一枚を残す感じでと。実際に、ノミで皮一枚を剥がすが如く見事な調整を、何度かデモンストレーションして下さった。余裕(安全)をみて、スミ線から 1mm も切り残すと、いくら慎重にノミを当てるとしてもキレいに整えるには限度があると。

それと、刃物が切れないといけない、と言う。本来言うまでもなく大前提。カンナやノミ各種、そして白書き、など。

まれびとたちの沖縄

琉球でよく知られるのが、芥隠(?~1495)という京都出身の禅僧である(略)。このときの琉球の王は、尚泰久(1415~1460)の治世である(略)。尚泰久は芥隠に帰依して、多くの寺院を建立し梵鐘を鋳造している。

琉球に仏教を広め定着させようとする日本の禅寺、日本化を模索する琉球王、両者の意向が多くの寺院や梵鐘として形となった。引用は、与那原恵著「まれびとたちの沖縄」(小学館、09年)から(p95)。ベッテルハイムの第3章が目的で借りたが、為朝伝説(第2章)の方が面白かった(為になった)。

先日聴講した文化講座「東アジアの中の琉球金属技術史」によると、当時つくられた梵鐘の数は、1456年に10口(個)、さらに1459年までに23口。大内家が支配した周防や筑前芦屋の鋳物師が作成に関与したとのことだった。

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