さまざまな権力による抗争が幾度となく繰り広げられるなかで、前方後円墳が築造されたことは明らかである。その規模の違いに実力の大小があることは確かではあるものの、規模とデザインの選択は、あくまでもその人物による趣向が働いていた
坂靖著「倭国の古代学」(新泉社、2021年)から(p174)。県立図書館の新着コーナーにあるのを借りて来た。帯に「倭国統一への過程。」とある。
墓のサイズと覇権はどんな関係にあったのか。例えば、国内最大の前方後円墳である大山古墳(大仙陵古墳、伝仁徳天皇陵)の場合はどうだろう。築造は、5世紀半ば。群雄が割拠する激動の時代だ。被葬者は一大勢力であったことは間違いないだろうが、王の中の王ではなかった。倭国の統一は、6世紀と考えられている。
では、その墓に葬られているのはいったい誰なのか。本書著者は、宋書に登場する倭の五王の一人「讃」と推定する。有力説の一つでもあるようだ。讃は、421年、宋に朝貢した。日本書紀に登場するオオサザキ(仁徳)がその人で、「讃として中国に遣使したものとみてよい」と本書にある(p185)。
やはり大山古墳は、仁徳陵なのだろうか。男系が数代続いたと伝えられている。その隆盛ぶりは巨大墳墓の被葬者に似つかわしい伝承だ。後々の覇権者たちにとっては、その血筋を継いでいると記録することは自身に都合の良いことだったに違いない。
# 仁徳天皇(?-427年?、倭の五王の讃)、雄略天皇(418年?-479年?、倭の五王の武、ワカタケル、獲加多支鹵)、稲荷山古墳出土鉄剣|Wikipedia。「斉明天皇陵」の整備完了 牽牛子塚、白い八角墳に(3/2)