エントリー

カテゴリー「読み物」の検索結果は以下のとおりです。

選択を間違えた場合に

  • 2024/03/26 05:21
  • カテゴリー:読み物

人生は選択の連続である

けだし名言と言うべきだろう。シェイクスピアの言葉という説もあるが不明。

岐路に立つ時、有効な選択肢を持つようにしていた。最低でも3つの選択肢を、大きな母集団から絞り込んで行く。仕事を進める上で、選択肢のことはたいへん重視した。

選択肢のすべてについて慎重な検討を重ね、結果、これがベストだ、とケースAを選ぶ。ところが、後になって、別のケースBの方が良かったようだ、と選択ミスが判明することがたまにある。折もあろうに、ノーマークだったケースDが急浮上することもある。

取り返しがつかず、ケースAでやって行く。その際、BよりもAを選択して良かった点を最低3点は書き出す。Bはベストだと判明したけれど欠点もある。これも3つ以上リストにする。そうやって、Aを選んで良かったのだと自分に言い聞かせ、業務を進めて行く。

なにも心の決着を付けるだけじゃない。業務上もそのリストをしっかり記録に残して将来の教訓として銘記する。仕事の精度を上げる材料とする。部下のMは、だいぶ負け惜しみですね、と言ったりしてたけど。

仕事では選択は日常茶飯事。選択肢を並べる。ベストを見極める。細々と微調整する。取り返しがつかなくても負け惜しみ的な対処もある。どれもルーチンでこなせる。

人生にも選択はつきもの。上で引用した言葉の通りだ。仕事での選択のように、前後の作業も含めて、ルーチンで、どんどん処理して行けると良いのだけれど、なかなかそういうわけには行かない。そんな簡単なもんじゃない。

選択の科学弁護士の「勝つ技法」(いずれもサイト内)

パズルをつくる

  • 2024/03/25 06:02
  • カテゴリー:読み物

マサチューセッツに住む鬼才スチュワート・コフィンが提案した

ワイヤー・アンド・ストリングパズルが紹介されている。芦ヶ原伸之著「シリーズ子どもとつくる9-パズルをつくる」(大月書店、1984年)の「一見簡単」の項で(p54)。

コフィン(Stewart T. Coffin、1930-)の名はここでも既に何度か登場している。パズルに関して少し調べるだけで、すぐ彼に関する記載に行き当たる。彼の木製パズルは、どれもこれも見事なものばかり。図面が付いていればつくりたくなる。実際にいくつ試してみた。加工は精度が求められ容易じゃない。つくってみると、パズルのおもしろさ(難しさ)と見栄えの良さ、両方を備えていることがよくわかる。

不幸な幼年期悪魔のパズルFive-Piece Solid Blockアルテクルーズ・パズル(いずれもサイト内)。Stewart Coffin|Wikipedia

Re: 好きな歌・嫌いな歌

  • 2024/03/23 05:56
  • カテゴリー:読み物

歌というものは、本来、誰かの心から流れ出て、それをのどが渇いている人が飲むものなのだ。

「ひこうき雲」を聴いた時と同じように、「雨のステイション」にも感じ入ったと著者は書いている。團伊玖磨著「好きな歌・嫌いな歌」(読売新聞社、1977年)(p127)。

著者は、「この若い、見知らぬ女の子が作詞し、作曲し、自ら歌う歌」に、なぜこんなに惹かれるだろうかと考察する。世の中、「余りにも商業主義の入り込んだあざとい歌」が溢れかえる中、「商業主義の色彩を感じられぬ歌」だからではないかと。ただ、これとてレコードになって売られている以上、「商業主義のコンベアーの上に乗っている」ことに違いないので「いつかは変質して来るかも知れない」と付け加える。

好きな歌・嫌いな歌ユーミンのアルバム十選(いずれもサイト内)。You can lead a horse to water but you can't make it drink.(サポートすることはできても、結局、やるかやらないかは本人次第)

好きな歌・嫌いな歌

  • 2024/03/22 05:51
  • カテゴリー:読み物

正直のところ、荒井由実という女性がどういう人か僕は全然知らない。然し、これらの歌は僕を惹き付けた。こういう関係こそ、音楽とそれを聞く人間との一番純粋な段どりだと思う。

この女性が、のちに国民的ミュージシャンになることを、著者はこの時点で想像もしなかっただろう。引用は、團伊玖磨著「好きな歌・嫌いな歌」(読売新聞社、1977年)、「ひこうき雲」から(p104)。

この本には、「雨のステイション」の項目(p126)もある。

県立図書館の新サービス(サイト内)。團伊玖磨(1924-2001)

失われた兵士たち

  • 2024/03/13 06:00
  • カテゴリー:読み物

一つの時代を後世の価値観で裁くことは、私たちがおちいり易い錯誤である。国家に殉じることが、最高の名誉とされた時代もあったのである。反戦を叫ぶ現代の日本人が一時代前に戦って死んだ人々よりもすぐれていることにはならない。

野呂邦暢著「失われた兵士たち-戦争文学試論」(文春学藝ライブラリー、2015年)から引用した(p26)。作者唯一の評論。

「文学論というより、一種の書誌的論考」とあとがきで記されている。「戦争文学の枠をとりはずし、ドキュメントや手記のたぐいをも紹介することで、日本人が戦った戦争とは何であったかを考えてみた」(p450)。

万葉集をぱらぱらと見ることがあって、そんな折、「現代の日本人が一時代前」どころか古代の人たちに比べても「すぐれていることにはならない」と思ったりする。この野呂の評論や戦争文学とはまったく関係のない話なのだが。

例えば、「我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡」(巻16-3838)という、わけのわからない歌がある。意味不明の歌をつくれる者に褒美をとらす(或有作無所由之歌人者賜以錢帛)、その問いかけに応じて献上されたのだとか。千数百年前にそんなユニークでナンセンスな言葉遊びに興じる人たちがいた。今の人が古い人より優れているなんて決して言えない。

昭和史百冊野呂邦暢(いずれもサイト内)。万葉百科|奈良県立万葉文化館

ユーティリティ

« 2025年07月 »

- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

新着エントリー

過去ログ

Feed