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カテゴリー「読み物」の検索結果は以下のとおりです。

われらが痛みの鏡

  • 2022/06/09 06:22
  • カテゴリー:読み物

たしかにいちばんつらいのは、ただ待っていること、何を待っているのかもわからないことだった。

迫り来るドイツ軍を前に、前線の指揮系統は機能していない。引用は、ピエール・ルメートル著「われらが痛みの鏡」(ハヤカワ・ミステリ文庫、2021年)から(上巻p175)。平岡敦訳。

待つことの辛さは、再度、出て来る。「誰もが死ぬほどつらかったのは、ただ待っていることだった」(下巻p13)。ここにも指令が届かない。

ユニークな人物が登場する、稀代の詐欺師デジレ・ミゴー。前半は、情報省の係官としてメディア対応で弁を揮い、後半は、礼拝堂の司祭に成り済まして難民を救済する。小学校の教師や、パイロット、外科医、そして弁護士の前歴もある(上巻p87)。正体がばれそうになる、その前兆を察知するのに長けている。

三部作はこれで完結。本書のカバーそで(後ろ)にある作者紹介で「シリーズ最高傑作との呼び声も高い」と謳われる。どうだろうか。「天国でまた会おう」「炎の色」、そして本作と、段々萎んで行くように感じたのだが。

ピエール・ルメートル(サイト内)。村上春樹著「国境の南、太陽の西」、フランク・アバグネイル|Wikipedia

「日本人の正体」

  • 2022/06/07 06:28
  • カテゴリー:読み物

日清戦争、日露戦争以来、戦争を礼讃し続け、国民を煽ったのが新聞社だったこと、国民も「負けない日本」「西欧列強に追いついた日本」に酔いしれ熱狂していたことなど、なかったことにされてしまったのだ。

敗戦後、新聞は平和の尊さを訴え、国民はそれに頷いた。反省なんて一つもない。国の指導者や、軍部、兵器会社など、そっち方面の人たちだけが、戦争を望んだのだ、と嘯いた。戦後の日本は、この欺瞞の上に成り立っている。

引用は、関裕二著「なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか」(PHP研究所、2015年)の「おわりに」から(p293)。本書の副題として、古代史から見た方がよくわかる、「日本人の正体」につながる物語、2行が付されている。

第27回国際交流会議「アジアの未来」(5/23)に出席した、シンガポールのリー・シェンロン首相は、日本は「戦後、侵略した国々と十分に和解しなかった」と歴史問題を未解決のままにしていることを指摘した。この国の欺瞞を他国は見抜いている。

北支事変保守政治家の本領(サイト内)。日本は侵略の過ち認めて シンガポール首相が見解(赤旗5/24)

白旗伝説

  • 2022/06/02 06:23
  • カテゴリー:読み物

平和とは非軍事である、という戦後日本の平和主義的思い込みがあるような気がする。欧米世界にあっては、平和とは軍事力を背景にした平穏状態を意味するにすぎない。

松本健一著「白旗伝説」(講談社学術文庫、1998年)から(p219)。最寄り図書館では郷土コーナーに並んでいる。

本書では、白旗や降伏に関するエピソードが縷々語られる。古来、白旗は、紅白戦で知られるように源氏の旗であり、また弔いの旗であった。

1853年に来航したペリーが、交戦となって降伏したければこれを掲げよと幕府に白旗を送り付けた(p34)。友好的な通商交渉などではなく、かなり露骨な砲艦外交だったのだ。これにより、日本は、白旗に降伏の意味があること初めて知った。

国内で最初に白旗を掲げたのは戊辰戦争での会津藩だった。降伏式で白旗を掲げる、「その知識は西軍参謀の板垣退助が授けたものではないか」(p83)。「板垣は国際法の本拠地であるオランダ式の兵学にくわしく」、後にフランス陸軍にも関心を持った。

日清戦争の際、連合艦隊が、当時における「国際法」学の第一人者、有賀長雄を顧問として連れていたのは、「国際法規を忠実にまもって戦おうとしたためだった」(p129)。有賀は、日露戦争でも国際法の担当として司令部に属した。ロシア軍ステッセル将軍からの降伏文書に対応したのは彼だった(p151)。

日清・日露戦争までは、「文明」たらんと、戦場において白旗の国際ルールを尊重した日本だったが、大東亜戦争ではそれを無視して「野蛮」な戦いを強行した(p140)。当時の戦争指導者がいかに国際法に無頓着であったことか。

「白旗をかかげた沖縄の少女」、本書のカバーにも掲載されているこの写真が撮影されたのは昭和20年6月25日だった(p15)。壕(ガマ)から出る時に白旗を持っていれば米兵に撃たれないと、ある老人が知っていた。それは「日露戦争に従軍したときに得た知識なのではないか」(p161)。

松本健一ペリー(いずれもサイト内)

任俠病院

  • 2022/05/31 06:17
  • カテゴリー:読み物

どんな仕事だって、所詮人間がやるものなんですよ。だったら、やりようはいくらだってあります。それに気づいてほしかったんです

組長は何だってお見通し。今野敏著「任俠病院」(中公文庫、2015年)から(p386)。任侠シリーズ第3弾。このシリーズはどれも、リーダーやマネージャへの指南やヒントに溢れている。下手なビジネス書よりも、余程、役に立つのではないだろうか。

組長はこんなことも言う(p306)、「裏付けるような情報をかき集めろ。情報の多さが勝負だ」。部下は情報収集する。そして報連相を怠らない。判断の材料が揃って行く。

主人公は組の代貸(だいがし、ナンバー2)。組長(オヤジ)に「おまえは、本当に苦労性だな」と言われる一方、その五厘下がりの兄弟分(オジキ)には「おまえには、いつも苦労をかける」と労われる。それが二人の口癖のようだ。

今野敏(サイト内)。任侠シリーズ特設ページ|中央公論新社

畏るべき昭和天皇

  • 2022/05/28 06:22
  • カテゴリー:読み物

在ることの証明は容易であるが、無いことの証明はそう簡単ではない

松本健一著「畏るべき昭和天皇」(毎日新聞社、2007年)から(p219)。

〈記憶の王〉がその記憶に強く刻み付けながらも、決して口に出したくない人名、その第一は北一輝だろう。と、二・二六事件を深く研究した著者が、〈記憶の王〉と北一輝を結び付ける。引用部分を読むと、口に出さなかったことがどう証明されるのか期待してしまうけれど、事実として「口にしたことは、ない」とだけ記されている。

「御聖断とは、何か」(p27)。一つは、二・二六で蹶起した青年将校らを反乱軍とみなし討伐したことであり、一つは、ポツダム宣言を受諾し米英との戦争に降伏すると決めたことであった。

降伏より前に、そもそも米英との無謀な戦いを避ける「もう一つの御聖断」(p45)があり得たのではないだろうか。和平を希求し一貫して外交交渉を主にせよと意見していたのだから。結局のところは、大本営が戦争を決め政府が同意していては開戦を裁可するしかなかった、と著者は記す。

遡ること十数年前、張作霖爆殺事件(昭和3年、1928年)に際し、責任者処罰の前言を翻して「うやむや」に処理しようとした田中義一首相を叱責し辞めさせる。この人事は立憲君主制から逸脱している、と元老の西園寺公望に咎められる(p137)。田中がすぐ後に悶死したこともあって(p39)、それ以後は閣議決定には意見はするが拒絶しないと心に決める。また、大本営が決定し政府が同意した開戦に反対すれば、軍部が二・二六の時と同じようにクーデターを起こすことが懸念された(p61)。これらが、もう一つの聖断が下されなかった理由だったと。

明治の名将らとは違って、昭和の東条英機・陸相(首相)らは、「大局を考へることができなかったし、戦争を止めるときというのも知らなかった」(p237)。ふと、「降る雪や明治は遠くなりにけり」が頭をよぎった。中村草田男がその句を詠んだのは、昭和6年のことだったらしい。日本が足掛け15年に渡る戦争をおっ始めた年だ。

著者の「明治天皇という人」「原敬の大正」、そしてこの「畏るべき昭和天皇」と読み進め、日露戦争と一次大戦に勝ち増長して行くわが国の姿をざっと追った。歴史にifはないと言うけれど、例えば、原敬が暗殺されなければとか、大隈重信が対支二十一か条要求を強行していなければとか、伊藤博文がもっと完成度の高い憲法を作成していたらとか、山縣有朋が統帥権など唱えなければとか、維新三傑が長く活躍していればとか、そんなことを思ってしまう。国も組織も勝手に動く装置ではない、誰かの意思によって動く、それを改めて思い知った。

松本健一(サイト内)。張群|Wikipedia、春秋(2020/1/3)|日本経済新聞

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