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カテゴリー「読み物」の検索結果は以下のとおりです。

調べるチカラ

  • 2018/06/15 06:11
  • カテゴリー:読み物

ロボット 動向 site:.go.jp filetype:pdf

と一行記入して、Google 検索を行う。すると、サイト(ドメイン)とファイル形式を限定した、「ロボット 動向」の検索となる。野崎篤志著「調べるチカラ - 情報洪水を泳ぎ切る技術」(日本経済新聞出版社、18年)から(p151)。

サイト限定は、かなり以前から使っている。http://te2.s7.xrea.com/ の二段目、Google 検索。同じニュースを、各新聞社や NHK がどう言っているか見るのに便利。


BingBaidu(百度)
レファレンス協同データベース
国立国会図書館リサーチ・ナビ
政府統計の総合窓口(e-Stat)

害虫殲滅工場

  • 2018/06/08 10:42
  • カテゴリー:読み物

水、小麦の麬、ビール酵母、大豆から油を絞り取った後に残る大豆粕、砂糖、安息香酸ナトリウムという防腐剤、そして3.5パーセントの塩酸を加え餌となる培地をつくった。

その培地は、ウリミバエの幼虫用だ。ハエの幼虫とはつまりウジ虫。引用は、小林照幸著「害虫殲滅工場―ミバエ根絶に勝利した沖縄の奇蹟」(中央公論新社、99年)から(p106)。この本は、最寄り図書館の郷土コーナーにあった。

かつて、イエバエを飼っていたことがあった。農学部の学生だった頃のこと。所属していた研究室では、農薬の研究のために、様々な害虫を継代培養していた。簡単に言うと、飼っていたのだ。誰しも、先輩から、最低一つ、虫の培養を受け継いだ。中には、口にする(言う)のもおぞましい虫もあった。おれはイエバエを担当することになった。

人手不足で教授ご自身がお忙しい中イエバエをやっていた。それを受け継いだ。由緒正しいイエバエということだった。培地は、イエバエの場合、麬と大豆粕、二つを水で練り合わせた。その他には何も加えなかった。そのことをこの引用部分を見て思い出した。説明を受けた当初、麬(ふすま)と聞いて、へぇ、襖障子の襖がこんな粉状になるのか、と思ったものだ。30年以上も前の遠い昔の話だ。

琉球山原船水運の展開

  • 2018/06/06 07:48
  • カテゴリー:読み物

共同店は一九〇六年の国頭村奥部落に最初に出現した。

近世近代沖縄の海運や造船についてぱらぱらと見ているときにこの記載に行き当たった。沖縄で、特に石垣島などでよくお世話になる共同売店が、一番最初にできた地が奥であることは知っていた。その共同売店が、なぜ船の話に関係するのだろうか、意外だった。引用は、池野茂著「琉球山原船水運の展開」(ロマン書房本店、94年)から(p64)。

かつて陸の孤島だった奥集落にとって海運は必然だった。集落の人たちは、集めた薪木を那覇市場に運び、帰路、日用雑貨を持って帰った。そのために、山原船(やんばるせん)というタイプの帆船を共有していた。この一連のビジネスを構築、運営したのが共同売店だった。

沖縄県の高山

  • 2018/06/06 07:02
  • カテゴリー:読み物

少し山の話になった折、沖縄には高い山はないので、海を楽しんだら、と M さんは言った。ご自身はどうやらダイバーらしいのだが、シュノーケリングがいいよと。

たまたま、牧志の図書館で「日本百低山」(幻冬舎、17年)という本を見かけた。沖縄から二つの山が紹介されている。石垣島にある県最高峰の於茂登岳(526m)、それと沖縄本島で最も高い与那覇岳(503m)。県の高山二つが低山ガイドに載っている。確かに高い山はない。

四千万歩の男

  • 2018/06/03 08:12
  • カテゴリー:読み物

忠敬は、17歳で伊能家の婿となった。

伊能家は佐原でも古い家柄の田地侍で、かたわら酒を醸造し、さらに商業も営んでいた。加えて忠敬の代になってから米穀の売買に手を染め、江戸の深川に薪炭問屋を出し、金貸しもはじめるというふうに商売の間口はさらにひろがり

日本歴史文学館22、井上ひさし著「四千万歩の男」<蝦夷篇>上(講談社、86年)から(p11)。忠敬は、ビジネスの才覚を示した。前出「伊能忠敬を歩いた」によると(p198)、現在価値換算で、入り婿時の資産3-4億円を、隠居時には40-45億円にまで殖やしたらしい。

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