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カテゴリー「読み物」の検索結果は以下のとおりです。

われにやさしき人多かりき

  • 2021/04/13 06:51
  • カテゴリー:読み物

〈僕はねぇ、小説書きたかったんやけど、あれは時間かかるよってな。僕は貧乏やったから時間ないよって、詩ィにした〉やわらかな大阪弁で、その率直さが若者たちの胸に沁みた。貧しいのは当時、みな、そうであった。

足立巻一の言葉を紹介している。引用は、田辺聖子著「われにやさしき人多かりき-わたしの文学人生」(集英社、2011年)から(p12)。著者は、昭和30、31年頃、大阪文学学校に通い足立講師のクラスで小説や詩を学んだ。「詩人の狷介さはなく、優しかった」と書いている。

「詩ィ」。おれも普段そう言う。カナで一字の単語(名詞)の場合、母音が伸びることがよくある。手ェ、歯ァ、木ィ、目ェ、火ィ、戸ォ、酢ゥ、血ィ、根ェ、などなど。関東出身の家人にはだいぶ違和感があるようだ。

足立巻一(サイト内検索)。大阪文学学校|Wikipedia

e-エストニア

  • 2021/04/11 07:56
  • カテゴリー:読み物

無料のIDカードリーダーを備え、取引の安全のためにIDカードの使用を顧客に勧めたことにより、国民eIDカードの普及に貢献した。

IT国家エストニアにおいて、主な電子サービスの内、最も最初に導入されたのは、e-バンキングだった。1996年のこと。以来、e-タックス、e-司法、e-ヘルスなど数々の電子サービスが提供されて行く。e-バンキングの発展を牽引したのは、ウヒスパンク(Ühispank、現 SEB)と、ハンサパンク(Hansapank、現 Swedbank)、大手銀二行だった。先を見通して賢明な判断が下せる人たちがいた。

e-Governance Academy編著「e‐エストニア-デジタル・ガバナンスの最前線」三菱UFJリサーチ&コンサルティング監訳(日経BP、2019年)から(p12)。

いったい日本はどうしていたのか。90年代半ばと言えば、バブル崩壊後の大手金融機関破綻で、金融危機の様相を呈していた頃だ。本書の監訳にある銀行名が、その後のサバイバルな銀行再編の歴史を物語っている。社会のデジタル化がまだまだこれからの我が国で、日本の銀行は存在感を示すことができるだろうか、二十数年前のエストニアのように。

次世代ガバメント(サイト内)。www.swedbank.eewww.seb.ee

弁護士の「勝つ技法」

  • 2021/04/09 06:44
  • カテゴリー:読み物

マルチプル・オプションは「多種多様な選択肢・解決策」とでもいえようか。考える核心は、マルチプル・オプションを創り出すことにある。(略)抽象論や建前論なら簡単だが、三つの異質の具体的なオプションを創り出すのは並たいていの作業ではない。

矢部正秋著『プロ弁護士の「勝つ技法」』(PHP新書、2018年)から(p241)。

本書で述べられる6つの視点(章立て)、1) 広く深く情報を収集する、2) 情報の真偽を吟味する、3) 状況の全体を俯瞰する、4) 人物の本性を見極める、5) 時間軸で将来を見通す、そして、6)「多彩なオプション」を創り出す。

矢部正秋(サイト内検索)。一年先の口約束は信じない(p194)

プロ司書の検索術

  • 2021/04/07 06:42
  • カテゴリー:読み物

あると信じれば見つかるわけではないが、あると信じて探さなければ見つからない

著者の信条とある。出典、入矢玲子『プロ司書の検索術-「本当に欲しかった情報」の見つけ方』日外アソシエーツ, 2020, p76。最寄り図書館の新着本コーナーにあった。

メディアの中で「新聞を最も重視」。かつて社会の木鐸と称され「倫理規範も確立」している。昨今は「販売収入も広告収入も落ち込んで弱体化」し「情報の質や独立性がその犠牲」になると懸念されている。(p92)

Web of Science、引用文献データベース。ラリー・ペイジは、グーグルの中核技術「ページランクのアイデアをここから得たという説」がある。(p103)

調べるチカラ(サイト内)。SciSearch (Current Contents)

象徴の設計

  • 2021/04/05 06:54
  • カテゴリー:読み物

「わしは、一介の武弁じゃからのう」というのが有朋の口癖であった。政治よりも軍隊づくりが彼の執念であった。しかし、この言葉の中に、伊藤に対する青い炎が彼の心の中に、ちょろちょろと燃えていなかったとはいえぬ。

山県有朋による参謀本部設立(1878年)や軍事勅諭(82年)。彼をそれへと衝き動かす原動力の一つに、能吏である伊藤博文に対する「ひそかな反撥」があったのではないか。引用は、松本清張全集17巻(文藝春秋、1974年)に収載の「象徴の設計」から(p284)。初出誌は、「文芸」1962年3月-63年6月。

軍事勅諭は、有朋の命を受け、西周が起草し福地源一郎らが加筆したことが本書でも語られる。後に(1906年10月)、元老有朋は「帝国国防方針策」を上奏する。この起草は側近の田中義一歩兵少佐だった。

明治維新とは何だったのか(サイト内)。山縣有朋田中義一|Wikipedia

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